特集 第23回:卒業論文 ふるさと銀河線とローカル線の果たす役割U

 2006年3月11日掲載

 

第2節 開業後のふるさと銀河線

池北線から銀河線のものへ

 めでたく、1989年、池北線はバス転換を逃れ、ふるさと銀河線として残ったわけであるが、駅舎を初め、設備は車両以外、何一つ変わっていないというのが現実だった。しかも、その車両ですら一部はJRから借りてきて使うと言う自体であった。

 車両面は、開業から約3ヶ月後に5両導入されているため、比較的早い段階で銀河線のものとなったといえる。

 ただ、設備は古いままであった。この設備では人件費がかかる他、老朽化問題も浮き彫りになってきた。そこで設備面を見直すことにした。

まず、CTC(列車集中制御装置)の導入である。これは、老朽化した信号機や、分岐機、いわゆるポイントの自動化を図るものである。銀河線では、開業当時からタブレット閉塞方式というものを用いてきた。閉塞とは、ある一定ごとに区間を設け、その区間の出入り口に信号機を設けるというもので、1閉塞1列車というのが基本である。つまり、1閉塞内には1列車しか入れないようになっているというものである。特に銀河線を初めとした単線では、1つの線路を上下の列車が使うため、当然、正面衝突の危険があるわけである。複線の場合であっても、前に走る列車に追いついてはならないのは当然である。

 そこで、区間ごとに区切って、1つの区間、閉塞に1つの列車しか入れないようにするというのが閉塞というものである。

 タブレット閉塞とは、かつて単線で見られたもので、タブレットと呼ばれる金属製の通行手形のようなものを用いる方法で、通常はタブレットをいれる袋のついたワイヤーの輪を使う。

 駅にはこのタブレット発行機があり、タブレットは1閉塞に1つしか存在しない。列車は閉塞内へ進入する際、駅でタブレットを受け取ってから入って行くことになるが、1閉塞1つしかないため、他の列車がタブレットなしで閉塞内に進入することができない。閉塞を出たら、駅にタブレットを返す。返されたタブレットは、今度は反対方向の列車に渡され、ここではじめて反対方向の列車が閉塞内に入ることができる方式である。

 しかし、これには、信号機を作動させたり、タブレットの受け渡しなどをする職員が必要になる。赤字が続く銀河線にはこうした人件費は重荷であった。

 そこで、CTC化させることになったのである。CTC化すると、こうした人件費はかからず、タブレットも必要なくなり、信号機が自動で変わることで管理するわけである。機械にダイヤをあらかじめ入力しておくだけでいいわけで、これで駅の無人化を図ることができるわけである。この整備には「鉄道軌道近代設備事業補助」が活用された。

 工事は1995年の第1期の北見―置戸ではじまり、翌年の第2期は置戸―足寄、さらに翌年の第3期で池田まで行なわれ、全線に渡ってCTC化され、列車の安全の向上、時間短縮の他、人件費が浮く事から、経費削減にもつながったのである。

 CTCの他、通信線のケーブル化、分岐機の重軌条化及び電気融雪設備、ATS(列車自動停止装置)の新設がなされた。

 駅舎も、銀河線がしだに地域に根付くにつれ、「銀河」をモチーフにし、なおかつ地元の特色も出すという駅舎作りが次第にされるようになってきた。

 まず、開業翌年に、小利別駅がコミュニティ施設と一体化され、12月17日から使用開始になったのを皮切りに、1991年に1937年より町を見つめ、歩んできた本別駅舎が解体され、本別駅「ステラプラザ」としてオープンした。ステラプラザは、駅の他、レストラン、物産センター兼観光案内所、イベントホール、キヨスク、簡易郵便局を設置した複合施設で、北斗七星、沿線自治体を表した7つのガラス製の三角屋根が特徴である。9月11日の落成式には140名もが集まり、まちの新しい顔の誕生を祝福した。

 

 その後も、仙美里駅、陸別駅、足寄駅、置戸駅、訓子府駅など次々改築されていった。しかし、この改築では、よく見られる駅前再開発のような、まちとの調和など無視したものではなく、「銀河」や「まち」を意識したものとなり、さらに、コミュニティセンターなどが一緒に併設され、列車の乗り降りだけの駅ではなく、地域住民の生活の中にある施設となったのである。なお、陸別駅は道の駅陸別にもなっている。

 こうして、次第に銀河線は、池北線から、地域が作り上げたふるさと銀河線へと変化していったのである。

 

膨らむ赤字

 開業当初から、ふるさと銀河線は赤字が見込まれていた。年間4億5千万円の赤字を出している銀河線であるが、開業当初は3億9千百万円にとどまった。これは、開業効果、「開業フィーバー」と呼ばれるもので、開業当時は、ものめずらしさということで、訪れる人が多かったからである。

しかしそのフィーバーが薄れていった2年目頃から、次第に赤字が増し、2年目で4億9千8百万円に上り、3年目からは5億円突破も見込まれていた。

そんな中、要望もあった事から91年には、池田から根室本線を走り帯広までの直通運行を開始したり、93年に開始した2日間乗り放題切符の発売、池田、北見駅で降りた場合、(そのあとJRに乗り換える場合でも一旦清算になる)発行される清算証明書の半券を応募すると、地元の特産品などが抽選でプレゼントされるなどの企画を行なってきてはいるが、決定打にはなっていない。

その中で、会社側は、経営の根本的改善が急務とし、まず、人員削減や人件費軽減、資産や土地を利用した営業外収入の他、自治体への利用促進を働きかけた。

その結果、人員は当初135人から125人へ削減されたのである。しかし、その後も毎年4億円前後の赤字が発生しているのである。その背景には、利用客の低迷などがあり、その後も様々な取り組みをやってはきたのだが、決定打になるものがなかった。これに関しては別途述べる事とする。

 

資料:「史稿 No26」 『網走本線から池北線そしてふるさと銀河線へ』 熊谷 祐三著 平成17年7月25日発行 北見市史編さん事務室発行 p20「経営実績推移表」より作成

 

第3節 北海道における鉄道の歴史

北海道の鉄道の幕開け

北海道の鉄道の始まりは、1882年にさかのぼる。当時、アメリカの船の燃料や物資の補給地に日本がもっとも適していた。それには燃料の石炭が必要であったが、当時まだ北海道では発見されていなかった。そこで、炭鉱を探し回った結果、地質学者ライマンが幌内で露出した炭層を発見、幌内で石炭が発見されたのである。

そして1879年、「幌内炭鉱」が設けられた。ここで、採炭された石炭を運ぶ手段が必要になった。

当時は、幌内から、小樽へ、太平洋側の苫小牧方面へ輸送する、函館へ輸送するなど、様々な方法が考えられた。いずれにせよ、鉄路がこれに伴い必要だったわけである。

そこで、色々と検討した結果、湿地帯が途中に広がるため、工事が困難である、距離的に無理があるなどの条件があるため、などの結果、幌内―手宮の間に鉄路を設けるのが妥当と判断され、ここにアメリカのクロフォードから伝えられた鉄道技術により、「幌内鉄道」、後の幌内線、手宮線が北海道初、全国でも3番目の鉄道として設けられることになったのである。

その後、次々に炭鉱が発見されたり、木材が利用されるようになるのと同時進行で、それらを積み出す鉄路が発達し、道内に網目状に敷かれていき、中でも小樽は北のウォール街と呼ばれるほどの経済の中心地ともなった。

こうして、産炭地などを中心に、地域が発展しにぎわっていった。また、夕張鉄道

幾春別森林鉄道など、国鉄以外の私鉄なども設けられたことも、この時代を象徴するといえよう。

こうした鉄道は、貨物輸送だけのためでなく、次第にその場所で暮らす人々の重要な交通機関となっていったのである。

池北線も、沿線で伐採された木材を当時、網走港まで運び出していたが、網走は、冬場、流氷に閉ざされるので、この時期は木材を運び出すことができなかった。そのため、林業が発達しなかったのだが、網走本線が設けられたことによって、置戸が木材の積み出し口となり、繁栄していったのである。また、戦時中、上利別駅は、軍馬の積み出しにも使われていた。

こうした物資の輸送の傍らで、網目状に敷かれて行った鉄路は次第に、地域に根付き、地域作り、まちづくりの要、そして、駅は地域の顔となり、欠かせない存在になって行ったのである。

 

国鉄民営化の流れ

しかし、1950年代〜60年代にかけての高度成長期後に起こった「モータリゼーション」により、それまでの交通体系の中に、マイカーというものが加わってきた。そして、それまで交通体系の中心を担ってきた鉄道から、マイカーへ移り変わっていった。

さらに、戦後の高度経済成長は、地方から都会への一極集中化を招き、地方から都市へ人が流れてしまい、過疎が進みはじめた。そうした中で、乗客を急激に失い始めたのが地方を結ぶローカル線であった。そのローカル線は、赤字となり、採算性がとれなくなっていった。その中でも、国鉄は鉄路の建設を進めていたという実態もある。

そうした中で国鉄も見直さざるを得ない状況となり、次第に廃止や、建設中止などのことがなされるようになってきた。中には興浜北線、興浜南線未開通部分がその例で、建設途中で中止されたたり、もう少しで開通だった鉄路ですら、一度も列車が走ることなく、廃止になったり、全線開通から10年ほどで廃止という例もある。こうした無駄とも思える鉄道建設も、国鉄を圧迫したのである。

そして、大きな波が押し寄せたのが、国鉄の経営建て直しをはかるため、1980年に制定された「日本国有鉄道経営再建促進特別措置法」のもとに行われたのが「国鉄分割民営化」である。国鉄分割民営化は、JR北海道、JR東日本、JR東海、JR西日本、JR四国、JR九州、JR貨物の7社に分割し民営化するというものである。民営化に当たっては、こうした赤字路線を排除し、整理する必要もあった。「日本国有鉄道経営再建促進特別措置法」は、特定地方交通線に指定された路線について、廃止後の転換の見返りに、転換交付金を1Kmあたり3000万円の交付や、転換後5年間の赤字補填、バス転換の場合は全額、鉄道の場合は半額を保証するなど、「アメとムチ」による転換推進が計られた。そして、その転換交付金は、転換のバスや鉄道の経営安定基金として使われることになったのである。

全部で3回に分けて廃止が行なわれたが、北海道では第1次で8路線、第2次で14路線、第3次は北海道ではなかった。

第2次では、100Kmを越える長大四線も含まれていた。この長大四線は、池北線、天北線、標津線、そして、本線である名寄本線までもが廃止対象になったのである。なお「日本国有鉄道経営再建促進特別措置法」は1986年12月4日に廃止になっている。

このほかにも、道内では次々と鉄路が消えて行った。中には100Kmや、100Km近い路線も含まれている。それに関しては以下の表にて示すことにする。このほかにも、国鉄ではないが、私鉄なども含めると、大小さまざまな鉄路が失われていった。

 

【表2】 道内廃止赤字ローカル線一覧

路線名

区  間

営業キロ

廃止年月日

白糠線

白糠―北進

33.1

83.10.22

万字線

万字炭山―志文

23.8

85.3.31

渚滑線

渚滑―北見滝ノ上

34.3

85.3.31

相生線

美幌―北見相生

36.8

85.3.31

岩内線

岩内―小沢

14.9

85.6.30

興浜北線

浜頓別―北見枝幸

30.4

85.6.30

興浜南線

興部―雄武

19.9

85.7.14

美幸線

美深―仁宇布

21.2

85.9.16

手宮線

手宮―南小樽

2.8

85.11.4

胆振線

倶知安―伊達紋別

83.0

86.10.31

富内線

鵡川―日高町

82.5

86.10.31

広尾線

帯広―広尾

84.0

87.2.1

瀬棚線

国縫―瀬棚

48.4

87.3.15

勇網線

中湧別ー網走

89.8

87.3.19

士幌線

帯広―十勝三股

78.3

87.3.22

羽幌線

留萌―幌延

141.1

87.3.29

幌内線

岩見沢―幾春別

18.1

87.7.12

松前線

木古内―松前

50.8

88.1.31

歌志内線

砂川―歌志内

14.5

88.4.24

標津線 ※1

標茶―根室標津

69.4

89.4.29

標津線 ※1

厚床―中標津

47.5

89.4.29

名寄本線 ※2

湧別―中湧別

4.9

89.4.30

名寄本線 ※2

名寄―遠軽

138.1

89.4.30

天北線

南稚内―音威子府

148.9

89.4.30

池北線

池田―北見

140.0

89.6.3

函館本線上砂川支線

砂川―上砂川

7.3

94.9.15

深名線

深川―名寄

121.8

95.9.3

出典:交通新聞社発行 『道内時刻表』p.144〜145表引用

 

備考

太字:長大四線をはじめとした100Kmを越える路線 斜体:100Kmに近い路線

※1:標津線は釧網線標茶から分岐し根室標津に至るものと、中標津から分岐し、根室本線厚床に至る支線からなるため、2つに分けた

※2:名寄本線は名寄本線名寄駅から分岐し、紋別を通り石北本線遠軽駅に至る本線と、中湧別から分岐し、湧別に至る支線からなるため、2つに分けた特定地方交通線の中で唯一本線を名乗る路線

 

民営化後のローカル線

民営化後も、赤字は続いている。さらにマイカーへ交通が移動し、都市部以外では本数は少なく、とても気軽に使えるものではなくなっている。実際、札幌圏でも、岩見沢より北側や、苫小牧より南など、札幌近辺でもちょっと離れると本数が激減である。

また、札沼線浦臼―新十津川は、3往復しかない。

 さらに、地域も、安い輸入木材や、安い農産物に押され、農村地はさびれ、産炭地でも、石炭からエネルギー転換で石油へ移ってからは需要がなくなったほか、さらに、数少なくなった消費先でも、安い輸入品が多く使われるようになったため、日本から生産としての石炭の採炭は終わってしまい、山から火が消えた。そのため、より地方での産業がなくなり、人々はそれに連れ、都会へ進出するようになった。よって一層一極集中化し、過疎に拍車がかかった。

 住民がいなくなったと言うことは、つまりは乗客がいなくなったというわけである。なので、列車がより減便され、運賃も上がり、さらには地域から駅がなくなってしまうという事態にも発展している。

 実際、1990年に宗谷本線琴平駅が、2001年に石北本線天幕駅、中越駅、奥白滝駅、宗谷本線下中川駅、上雄信内駅、芦川駅、2004年に石勝線楓駅が廃止となり、さらに、2006年3月のダイヤ改正で宗谷本線智東駅、南下沼駅、函館本線張碓駅、旭浜駅、札沼線中徳富駅、石北本線新栄野駅、留萌本線東幌糠駅が廃止予定になっている。

 しかし、駅がなくなるのは、利用者がいないからというわけであるが、張碓、天幕、中越、奥白滝など、すでに周囲に民家ないということもあるが、地域から駅が消えると、その地域が地図から消えることになる。そして、鉄道がなくなると、さらに地域が寂れていくという現実があるのである。

 こうして、幌内から始まった北海道の鉄道は、都市部を除き、北海道の過疎化の現実と比例するように、同じくして寂れているのである。

つづく


 第三セクター鉄道や、中小の私鉄などの経営基盤の脆弱な鉄道会社に対し、設備の近代化を図るため、国、地方公共団体で費用を負担すること

 

http://www15.plala.or.jp/chihoku/tihoku.html

 正式には手宮線は手宮―南小樽、幌内線は幌内―岩見沢で、岩見沢―南小樽は函館本線である。

 宮脇俊三 著 「地図から消えた鉄道実地踏査60 『鉄道廃線後を歩くZ』」2000年1月1日JTB 発行 P.30〜31要約

 

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